崎津教会
カトリック崎津教会
〒863-1204 熊本県天草市河浦町崎津539電話 0969-79-0015
◆主日ミサ
毎週 日曜日 午前7時30分から
◆平日ミサ
ミサの時間と曜日は井手神父さまのスケジュールの都合で、変更になることが多々あります。
ミサ予定のお知らせを毎回確認してください。
◆今後のミサ予定
○3月08日日曜日 朝7時30分から 四旬節第3主日
○3月15日日曜日 朝7時30分から 四旬節第4主日
◆聖書を読む会予定
○
◆十字架のみちゆき
○3月13日金曜日 夕方6時30分から
◆教会委員会
○3月06日金曜日 夕方6時30分から
◆クルーズ船寄港
○3月11日金曜日 朝8時30分から
2026年3月
「祈るときにも、あなたがたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる。はっきり言っておく。彼らは既に報いを受けている。
だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。
また、あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。 彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。
だから、こう祈りなさい。
『天におられるわたしたちの父よ、
御名が崇められますように。
御国が来ますように。
御心が行われますように、
天におけるように地の上にも。
わたしたちに必要な糧を今日与えてください。
わたしたちの負い目を赦してください、
わたしたちも自分に負い目のある人を
赦しましたように。
わたしたちを誘惑に遭わせず、
悪い者から救ってください。』
もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。
しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。」
マタイの福音書6章5節から15節 新共同訳聖書
2026年2月
『お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、 裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。』
すると、正しい人たちが王に答える。『主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。
いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。』
そこで、王は答える。『はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。』
マタイの福音書25章35節から40節 新共同訳聖書
2026年1月
主の慈しみは決して絶えない。
主の憐れみは決して尽きない。
それは朝ごとに新たになる。
「あなたの真実はそれほど深い。
主こそわたしの受ける分」とわたしの魂は言い
わたしは主を待ち望む。
哀歌3章22節から24節 新共同訳聖書
2025年12月
わたしの民よ、聞け、あなたに定めを授ける。
イスラエルよ、わたしに聞き従え。
あなたの中に異国の神があってはならない。
あなたは異教の神にひれ伏してはならない。
わたしが、あなたの神、主。
あなたをエジプトの地から導き上った神。
口を広く開けよ、わたしはそれを満たそう。
詩編81編9節から11節 新共同訳聖書
2025年11月
主よ、その人を守って命を得させ
この地で幸せにしてください。
貪欲な敵に引き渡さないでください。
主よ、その人が病の床にあるとき、支え
力を失って伏すとき、立ち直らせてください。
詩編41編3節~4節 新共同訳聖書
2025年10月
神は地の果てまで見渡し
天の下、すべてのものを見ておられる。
風を測って送り出し
水を量って与え
雨にはその降る時を定め
稲妻にはその道を備えられる。
神は知恵を見、それを計り
それを確かめ、吟味し
そして、人間に言われた。
「主を畏れ敬うこと、それが知恵
悪を遠ざけること、それが分別」
ヨブ記28章24節から28節 新共同訳聖書
崎津教会のカメラマン、出崎信行さんの作品をご紹介しています。
【海とくらしと教会】
【桜の王冠】
【けあらしと教会】
2026年2月28日土曜日
上智大学聖歌隊ミサ
雨が降らない。水がない。ダムが涸れる。そんな悲痛な叫びを神さまが聞いて下さったのか、昨日は土砂降りの一日。まさに恵みの雨になりました。
そして今日。素敵なお天気に恵まれて、崎津教会に聖歌隊の澄み渡る歌声が響きました。
長町裕司神父さま、そして宮越俊光先生指揮のもと16名の上智大学聖歌隊のみなさん。素晴らしい歌声でした。
長町神父さまの説教は、
「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。 46自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。 47自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。 48だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」。マタイの福音書5章45節から48節
この箇所からのときあかしでした。
私たちが努力して福音を勝ち取るのではなく、すべては主のおん計らいによるもの。それは神の愛以外の何物でもない。
執着を解きほぐし、「何故」にとらわれない。そのこころこそが信仰の本質へと繋がる道であり、巡礼の旅の目的であったとも言える。
短いながらも、神父さまのひとつひとつのお言葉が私たちの胸に溢れました。
いつかまた、その美しい歌声で崎津聖堂を満たし、神さまへの賛美をともにお捧げして下さいますようにお祈りいたします。
皆さまの巡礼の旅がこれで終わるのではなく、実り多き、祝福多き感謝の日々として、これからも続いていきますように。
長町神父さま、宮越先生、聖歌隊の皆さま、この遠い九州・天草までおいで下さりありがとうございました。
2025年も美しいイルミネーションが完成しました。
2025年9月27日土曜日
熊本地区教会合同巡礼ミサ(大江教会)
熊本地区宣教司牧評議会主催の巡礼ミサが、大江教会で捧げられました。
熊本地区所属の15教会から満遍なく信徒さんたちが集い、アベイヤ司教さまの司式のもと、司祭団と信徒200余名が揃いました。これだけの信仰者たちが一堂に会して私たちの主イエス・キリストを賛美するというのは実に荘厳であり、たましいが揺さぶられるような感動に満たされました。
天の御国ではきっと、時間の制限なく、こんな賛美がずっと続いているのだろうな、と想像すると、なんとも夢心地になり、幸せホルモンが溢れてきました。
ミサのひとときは、現実世界の労苦を忘れ、空洞の、乾ききった肉体に、そして霊とたましいにしっかりとちからをいただける時間です。少なくとも私はそうですし、会堂に集われた全ての信徒さんが同じ思いでありますようにと祈りました。
今年は通常聖年にあたりますので、特別な免償を受けるために、たくさんの信徒さんたちが罪の告白とゆるしの秘蹟をうけました。
アベイヤ司教さまの説教は、「希望は欺かない」という内容でした。
その基本は、くしくも殉教者アダム荒川の言葉でした。
朽ち果てるものではなく、また、寿命が尽きるとだれも等しく死んでいく人間にでもなく、ただ神に、イエス・キリストにのみ、望みを託して信仰の旅路を歩いて行く。
そうですね。マタイの福音書24章35節に「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」。と書いてあります。マルコ13章31節にも同じ事が書いてありますし、イザヤ書40章8節には「草は枯れ、花はしぼむがわたしたちの神の言葉はとこしえに立つ」とあります。
言葉は神であり、神はイエス・キリストです。ただ神に、イエス・キリストにのみ、望みを託して信仰の旅路を歩いて行く巡礼者。それが私たちである。
アダム荒川のように、強く雄々しくあれ。
アベイヤ司教さまはそんな内容で説教を締めくくって下さいました。
またいつか、どこかの教会に集い、旧交をあたためあい、そしてともに主イエス・キリストを賛美する機会を与えて下さるように、信徒皆さんが祈り願った一日でした。
2025年6月15日日曜日
アダム荒川殉教記念ミサ(天草大江教会)
世界中のどこかで、おそらく絶え間ないミサと祈りが、殉教者のために神さまの前に捧げられていることでしょう。でも、ときどき思うのです。そのことに果たして意味があるのか、と。
殉教者たちを偲び、追悼ミサを捧げ、祈りの時間を特別に設ける。その行為を否定しているわけではありません。
何十回、何百回と繰り返されてきた祈りとミサが、多少なりとも神さまに届いているのなら、なぜ、20世紀・21世紀がいちばん殉教者を出している、と、言われているのでしょうか。
ロシアとウクライナの戦争は一向に止む気配はなく、イスラエルは傍若無人に他国にミサイルを撃ち込んでいます。最近だけでも、どれだけ多くの信仰者たちがこの戦争で命を落としたことでしょう。
あまりにも不条理です。
だから神はいない!
の、でしょうか? そうではない、と信じています。
私たちが神さまを信仰するのは、どんなに理不尽な日々が続き、この世界は不条理の、漆黒の闇以外の何物でもない。と呻くときでさえ、信仰者たちは、私たちは現状に失望することなく、むしろ希望として、光として全てを神さまに委ねて信じることができるのですから、これほど幸いなことはありません。
あなたは嘘偽りなくそう断言できるのですか? と、問う声があります。
議論の余地はありません。そう告白することこそが「信仰」なのですから。
アダム荒川は、裸にされて横木に縛られ引き回され、三月のまだ寒い時期に朝から晩まで潮風の吹きすさぶ中に吊るされ捨て置かれました。九日間も。
そして、六十日に及ぶ幽閉。しかし、その間も彼は祈り、黙想し、苦難の時を感謝と賛美の日々へと変えていきます。彼の信仰を観て、聴いて、たくさんの人々が感動し、信仰をますます堅くした、と伝えられています。
どんな責め苦にも屈しないアダム荒川でしたが、1614年6月5日早朝、ついに斬首され、その遺体は重い岩にくくりつけられ湾外の海中深くに沈められました。
2025年の今日、私たちはアダム荒川が残した言葉に、覚悟のない私たちの日常を省み、そして誓うのです。「彼の言葉のとおりに私たちも生かして下さい」と。
彼はこう言い遺しました。
「わたしの希望は、石や土でできた教会にあるのではなく、また、時の移り変わりを免れ得ない司祭や、この空の下の何ものでもありません。ただ、神にのみ希望をかけているのです」と。
アダム荒川の、歴史の中のたくさんの殉教者たちの、そして、いまこの時代に死にゆく信仰者たちのたましいに、主の、イエス・キリストの慰めと祝福が溢れんことを祈り願って、今年も殉教記念ミサが幕を閉じました。
