崎津教会


カトリック崎津教会

〒863-1204 熊本県天草市河浦町崎津539電話 0969-79-0015

 

主日ミサ 
毎週 日曜日 午前7時30分から

◆平日ミサ 

ミサの時間と曜日は井手神父さまのスケジュールの都合で、変更になることが多々あります。
ミサ予定のお知らせを毎回確認してください。

◆今後のミサ予定

○1月18日日曜日 朝7時30分から 年間第2主日
○1月25日日曜日 朝7時30分から 年間第3主日

◆聖書を読む会予定

○1月14日水曜日 夕方6時から

◆教会委員会



 

2026年1月

主の慈しみは決して絶えない。
主の憐れみは決して尽きない。
それは朝ごとに新たになる。
「あなたの真実はそれほど深い。
主こそわたしの受ける分」とわたしの魂は言い
わたしは主を待ち望む。

哀歌3章22節から24節 新共同訳聖書

 

2025年12月

わたしの民よ、聞け、あなたに定めを授ける。
イスラエルよ、わたしに聞き従え。
あなたの中に異国の神があってはならない。
あなたは異教の神にひれ伏してはならない。
わたしが、あなたの神、主。
あなたをエジプトの地から導き上った神。
口を広く開けよ、わたしはそれを満たそう。

詩編81編9節から11節 新共同訳聖書



2025年11月

主よ、その人を守って命を得させ
この地で幸せにしてください。
貪欲な敵に引き渡さないでください。
主よ、その人が病の床にあるとき、支え
力を失って伏すとき、立ち直らせてください。

詩編41編3節~4節 新共同訳聖書


2025年10月

神は地の果てまで見渡し
天の下、すべてのものを見ておられる。

風を測って送り出し
水を量って与え

雨にはその降る時を定め
稲妻にはその道を備えられる。

神は知恵を見、それを計り
それを確かめ、吟味し

そして、人間に言われた。
「主を畏れ敬うこと、それが知恵
悪を遠ざけること、それが分別」

ヨブ記28章24節から28節 新共同訳聖書




 

崎津教会のカメラマン、出崎信行さんの作品をご紹介しています。

【けあらしと釣り人】

         

【雪の崎津教会】

 

【希望の朝日


 

 

今年も美しいイルミネーションが完成しました。

 

 

 


2025年9月27日土曜日

熊本地区教会合同巡礼ミサ(大江教会)

熊本地区宣教司牧評議会主催の巡礼ミサが、大江教会で捧げられました。

 


熊本地区所属の15教会から満遍なく信徒さんたちが集い、アベイヤ司教さまの司式のもと、司祭団と信徒200余名が揃いました。これだけの信仰者たちが一堂に会して私たちの主イエス・キリストを賛美するというのは実に荘厳であり、たましいが揺さぶられるような感動に満たされました。

天の御国ではきっと、時間の制限なく、こんな賛美がずっと続いているのだろうな、と想像すると、なんとも夢心地になり、幸せホルモンが溢れてきました。

 

ミサのひとときは、現実世界の労苦を忘れ、空洞の、乾ききった肉体に、そして霊とたましいにしっかりとちからをいただける時間です。少なくとも私はそうですし、会堂に集われた全ての信徒さんが同じ思いでありますようにと祈りました。

今年は通常聖年にあたりますので、特別な免償を受けるために、たくさんの信徒さんたちが罪の告白とゆるしの秘蹟をうけました。

アベイヤ司教さまの説教は、「希望は欺かない」という内容でした。

 

その基本は、くしくも殉教者アダム荒川の言葉でした。

朽ち果てるものではなく、また、寿命が尽きるとだれも等しく死んでいく人間にでもなく、ただ神に、イエス・キリストにのみ、望みを託して信仰の旅路を歩いて行く。

そうですね。マタイの福音書24章35節に「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」。と書いてあります。マルコ13章31節にも同じ事が書いてありますし、イザヤ書40章8節には「草は枯れ、花はしぼむがわたしたちの神の言葉はとこしえに立つ」とあります。

言葉は神であり、神はイエス・キリストです。ただ神に、イエス・キリストにのみ、望みを託して信仰の旅路を歩いて行く巡礼者。それが私たちである。

アダム荒川のように、強く雄々しくあれ。

アベイヤ司教さまはそんな内容で説教を締めくくって下さいました。

またいつか、どこかの教会に集い、旧交をあたためあい、そしてともに主イエス・キリストを賛美する機会を与えて下さるように、信徒皆さんが祈り願った一日でした。

 

2025年6月15日日曜日

アダム荒川殉教記念ミサ(天草大江教会)

世界中のどこかで、おそらく絶え間ないミサと祈りが、殉教者のために神さまの前に捧げられていることでしょう。でも、ときどき思うのです。そのことに果たして意味があるのか、と。

殉教者たちを偲び、追悼ミサを捧げ、祈りの時間を特別に設ける。その行為を否定しているわけではありません。

何十回、何百回と繰り返されてきた祈りとミサが、多少なりとも神さまに届いているのなら、なぜ、20世紀・21世紀がいちばん殉教者を出している、と、言われているのでしょうか。

ロシアとウクライナの戦争は一向に止む気配はなく、イスラエルは傍若無人に他国にミサイルを撃ち込んでいます。最近だけでも、どれだけ多くの信仰者たちがこの戦争で命を落としたことでしょう。

あまりにも不条理です。

だから神はいない!

の、でしょうか? そうではない、と信じています。

私たちが神さまを信仰するのは、どんなに理不尽な日々が続き、この世界は不条理の、漆黒の闇以外の何物でもない。と呻くときでさえ、信仰者たちは、私たちは現状に失望することなく、むしろ希望として、光として全てを神さまに委ねて信じることができるのですから、これほど幸いなことはありません。

あなたは嘘偽りなくそう断言できるのですか? と、問う声があります。

議論の余地はありません。そう告白することこそが「信仰」なのですから。

 

アダム荒川は、裸にされて横木に縛られ引き回され、三月のまだ寒い時期に朝から晩まで潮風の吹きすさぶ中に吊るされ捨て置かれました。九日間も。

そして、六十日に及ぶ幽閉。しかし、その間も彼は祈り、黙想し、苦難の時を感謝と賛美の日々へと変えていきます。彼の信仰を観て、聴いて、たくさんの人々が感動し、信仰をますます堅くした、と伝えられています。

どんな責め苦にも屈しないアダム荒川でしたが、1614年6月5日早朝、ついに斬首され、その遺体は重い岩にくくりつけられ湾外の海中深くに沈められました。

2025年の今日、私たちはアダム荒川が残した言葉に、覚悟のない私たちの日常を省み、そして誓うのです。「彼の言葉のとおりに私たちも生かして下さい」と。

彼はこう言い遺しました。

「わたしの希望は、石や土でできた教会にあるのではなく、また、時の移り変わりを免れ得ない司祭や、この空の下の何ものでもありません。ただ、神にのみ希望をかけているのです」と。

アダム荒川の、歴史の中のたくさんの殉教者たちの、そして、いまこの時代に死にゆく信仰者たちのたましいに、主の、イエス・キリストの慰めと祝福が溢れんことを祈り願って、今年も殉教記念ミサが幕を閉じました。

 

 

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